つぶやき「あいさつ」ってなんだろう

 2003年7月9日。何をやっても中途半端な私が、一念発起して「あいさつ&ごみ拾い」活動を始めた記念日です。
毎朝、通勤バスに乗る前の30分ほど、自宅からバス停で3つ分ほど歩きながら、行き交う方々に「おはようございます」、通学の子どもたちには「おはよう、いってらっしゃい」と声をかけ、路上のごみを拾いながら歩いています。途中にある松ケ丘中学校では、正門からグランドへ回り、部活動の朝練習の子どもたちにもグランドに向かって大きな声で「おはよう!」と声をかけています。特別にお願いして、中学校に拾ったごみの処分をお願いしています。雨や、休日、仕事の都合で休むこともありますが(継続する為に無理をしないようにしています)、ほぼ10年が経過し、本日で2、015日目となりました。
さて、そもそも私が「あいさつ」に力を入れ活動する意味は、いったいなんでしょう?

始めた当初は、以下のような効果を期待していたものです。
1.街の子ども達に路上で声をかけることにより、地区内の大人と子どもの交流のきっかけを作る→非行抑制効果
 ・挨拶を交わすことにより子供の顔を覚える。
 ・子供は、小さいころから顔を知っている大人が多いほど、その街で悪事ははたらけない。
2.声かけにより、子どもや街を犯罪から守る→防犯効果
 ・近所との親交が盛んになり、それが監視の役目になり、ドロボウや凶悪犯罪をけん制する。
 ・怪しい人間などがチェックでき、犯罪防止となる。
 ・活動を行う様子を街や通行する車に見せることにより犯罪者へのけん制になる。
  (窃盗犯は昼間、営業員や怪しまれない格好をして下見しているそうです)
3.有害ビラなどの除去を行う→環境浄化(これは資格が必要です)
4.ごみを拾いながら歩く→環境浄化、割れ窓(環境悪化の元)の発生防止
 ・一軒の荒れ屋から環境が悪化し、やがて犯罪が起きるようになり、街が荒廃していく(割れ窓理論)
 ・一つのゴミを放っておくとやがて沢山のごみが捨てられ、そこから環境が悪化し、街の荒廃に繋がる。
5.交通危険個所、防犯危険個所・防災危険個所のチェック→交通事故防止、防犯、防災効果
6.街の大人の方々にも声をかけながら歩く→地域活性、防犯効果、コミニテ一ィの醸成
7.街全体で子ども達を育む姿勢を率先して見せることにより、地区内の雰囲気づくりをする→青少年健全育成
 ・こんな大人もいることを子どもたちに示す。
8.しっかり歩き、あいさつでしっかり声を出す。→健康維持、ストレス解消

 あれから、10年。上に掲げた「理屈」に誤りがあるとは思っていませんし、今でも期待しています。
ただ、活動を続けているうちに、私自身の心境に大きな変化がありました。
最初はボランティア精神旺盛で、誰もやらなくても、一人でも、ヤッテヤル!!なんて勢いに任せて始めたものでした。
ゴミの量も半端ではなく、ところどころに出来た小さな「回収されないゴミ捨て場」の存在に嫌気がさしたものでした。
「おはようございます」の声掛けも、子どもたちは元気にあいさつを返してくれるのですが、大人の挨拶の下手なこと、返ってこないこと・・。小さなゴミ捨て場は数回に分けて、少しずつ片付けたものでした。
 1年を過ぎて音を上げかけていたころ、偶然に地域でお世話になっている大先輩が、「私も始める」と、行動を共にしてくれたのです。これは、私にとって、この上ない力になりました。その先輩は今でも元気に続けていただいています。今思えばこのことが気づきの出発点だったように思います。子どもの為、人の為、街の為、正義の為、地球の為・・・と肩ひじを張って始めたことですが、実は、これを続けることによって見えない「力」を得ているような気になってきたのです。
 元気にあいさつをくれる子ども達。「ご苦労様です」、「お世話様です」と声をかけてくれる街の方々。バス停で「おはようございます」と挨拶をくれる小学・中学を経た高校生。庭先の掃除をする方々。毎朝すれ違う勤め人。少し元気がなく、心配な子ども。かたくなに返事をしない子ども。民家の軒先で毎年咲く季節の花々、春のうららかな陽光、夏の勢い、秋の爽やかな空気、冬の澄み切った青空。
張りつめ、構えていた私の心は、次第に解きほぐされ、癒され、いつしか、この日課を楽しむようになっていたのです。
 無宗教・無思想の私ですが、おかげで「生かされていること」に気付き、そして「感謝」することがなによりも大切であることが見えてきたのです。関心を持ち、感動し、感謝して生きる。この3カンの気持ちで、日々を生きていきたいと思っています。
最後に、何の意味も分からず、興味もなかったお経の一説・・色即是空・空即是色。形あるものに実は意味はなく、目に見えないものにこそ本質がある。このことをこころの一番底に据えて、日々を生きたいものです。
五十嵐

つぶやき「天皇陛下が持ち帰ったもの」

     ★短歌<外来が 生態系を 乱すなら 人類の罪 比ぶものなし>★
 天皇陛下が皇太子時代の1960年にアメリカから贈られ持ち帰った15匹のブルーギルが50年かけて数億匹まで繁殖し、日本の淡水魚の生態系を大きく変えたことがDNA調査により証明されたという。たしかにそのきっかけにはなったのだろう。
 しかし「生態系が変化しない」ことなどあるのだろうか?渡り鳥の足についた卵や糞に混じった種が、外国で繁殖することなど、当たり前に思える。それが確率的に低いというならば、農業・水産技術の革新とやらで、冬でもスイカを作り、マグロを養殖し、遺伝子を操作して命を弄ぶ人類の所業はどう釈明するのだろうか。グルメブーム、ペットブーム、ガーデニングブーム、海外旅行ブームや農水産の技術移転などにより元来自国には無かった様々な動植物が入って来ることは、紛れもなく確信犯的生態系の破壊ではないだろうか?
 そもそも、生態系の変化を懸念するのであれば、ここまで増殖し、他の生物を虐げて傍若無人に振る舞う人類こそ、地球の生態系を全く変えてしまった大罪の責めを負うべきだと思う。もはや、人類が地球環境のことなど無視して移動や生成させた命による生態系の変化は、どうしようもないのではないだろうか。私は専門家ではないが、生態系は変化するもの、と考えるのは間違っているのだろうか。
 人類の振る舞いを否定することなしに、生態系の変化だけを問題視する議論は、私には理解できない。
だが、責任の一端は、間違いなく私自身にもあることは間違いない。
五十嵐

つぶやき「ごみは売られている?」

★ゴミは減らない。だって「売っているから」★
毎朝の通勤途上、地元の松ケ丘地区で約30分、行きかう人たちに挨拶をしながら挨拶運動も兼ねてゴミを拾って歩いて早10年になりました。幸い?にも、毎朝拾っても、(ポイ捨て)ゴミは無くなることはなく、それはそれで思うところも多く、日々楽しみながら続けています。
丸10年、2,000回を超えた毎朝のゴミ拾いですが、その間にゴミや環境問題に対する一般の関心は益々高くなり、3R(リデュース、リユース、リサイクル)、LOHASなどの「専門用語」?はそれなりに浸透したように思います。しかしそれはあくまで「言葉」の浸透であって、一人ひとりが「将来の為の今の現実問題」として理解し、自分自身の足元を見ながら日々の暮らしの中で対策を実践しているかというと(自分も含めて)甚だ疑問です。
★短歌<空き缶に ペットボトルに ガラス瓶 売られたゴミの 命儚し>★
環境問題は表面的にはゴミや自然環境破壊の問題と捉えられがちですが、根っこを探っていくととても深いところに行きつきます。それは、政治・経済はもちろん、歴史・生物・科学・宗教・倫理・哲学など、あらゆる分野に関わるのです。別に問題を難しくしたり、すり替えるつもりはありません。この問題の根源を乱暴を承知で一言でいえば「人類の欲望の膨張」といったところでしょうか。そしてこの一言を肯定するならば、この問題の解決(正しくは拡大防止)策もまた一言で、「足るを知り、降りてゆく生き方をする」ということになると考えています。要は、贅沢をし、楽をしすぎた、ということです。
大戦が終わった後の日本は民主化、資本主義の路線を驀進し、瞬く間に経済大国になりました。戦争を経験した親たちは、2度とあんな悲惨な暮らしはしたくない、子どもたちには豊かな暮らしをさせたい、と必死に働きました。その結果、国は(経済的に)豊かになり、物は溢れ、食べるものはおろか、暮らして行くのに必要なものは総て、好みの中から(お金さえ出せば)自由に選べるという、夢の世界を実現しました。
その結果、より美味しいものを求める余り、食材を海外にまで求め、人口の増加とともに、高かった食料自給率も次第に落ち込み、今では半分も自給できない状態になりました。40%と言われる食糧自給率ですが、言いかえれば60%はお金を出して海外から買っている、ということです。乱暴ですが「お金」に価値がなくなった瞬間、日本は食べるものが今の40%しか無くなってしまう、とも考えられます。一方で、好みに合わない食材や過度に新鮮さを追求するあまり、売れ残った食品は捨てられ、ゴミの山を築いていったのです。産業革命以降、止まるところを知らない人間の欲望は科学の発展を後押しし、本来価値交換の媒介として生まれたはずの「お金」が、それ自身まるで「価値」があるかのような「お金至上主義」を生んでしまいました。お金さえあれば、いつでも、どんなものとでも交換できる(と錯覚させる)社会、それが現代です。その結果、物の価値判断は「必要なものを使い切る」まで、ではなくなり、「より便利で楽しく新しい物を飽きるまで」に変わりました。本来の価値に対して「付加価値」なる言葉も生まれました。結果として、食物だけでなく、科学の産物もまた「ゴミの山」を築くことになりました。より新しく、便利で、快適で、楽しいもの・・・もっともっと・・・よりもよりも・・・。
★短歌<目障りな 大型ごみは 野に山に 川に捨てれば わが庭綺麗>★
しかし、ここまで膨らんでしまった人間の欲望は萎(しぼ)ませることはできるのでしょうか?間違いのないのは、このままいけば、人類は自分の棲みかを、自分で破壊してしまうという近未来の現実でしょう。
これを、政治・行政の責にして、他人任せにしてしまうのは簡単です。しかし、行政は人間の暮らしや秩序の為のルールは作りますが、物を作ったり、消し去ったりすることはできないのです。その結果、現在まで見えないところに隠されてきた「ゴミの反撃」が始まったという訳です。
何が言いたいか・・・ゴミ問題、地球環境問題は政治・行政の問題ではなく、人間一人ひとりの問題なのです。まず自分の足元を、自分に身近なところから、考え直すことが必要なのです。それが、地球に存在する多様な生物の中で共生する人類の責務であり、後の地球に生きる子孫に対する真の愛情ではないでしょうか。
このことを念頭に置いたとき、政治や行政の役割は明確で、物の目的とライフサイクルの基準を明確に持ち生産を調整し、原材料の資源管理に気を配り、過度な物欲を戒め、物の価値を見極め、他と比較することのない個々人の真の豊かさを尊ぶ教育施策を施し、主観的な価値観による不要物=ゴミではなく、絶対的な価値を基準とした物の価値を普及させる施策を施すことが重要なのです。
★短歌<南極の 氷の危機に アザラシよ 動物園が 幸せ皮肉>★
五十嵐

つぶやき「優先席」


気になっていました、ずっと。毎日のことですが、乗り合いバスを利用する人々を見ていると、なぜかほとんどの人は一般座席(優先席以外を、ここでは一般座席と敢えて呼びますが)が空いていても躊躇(ためら)わずに優先席に座ります。それは通勤電車も同じです。私は通勤に総武線の各駅停車を始発の千葉駅から利用しています。ホームでは整列乗車のルールを守り、きちんと整列して電車を待つところまではいいのですが、いざドアが開くと、先を争って優先席に座る人たち。見ていると、一般席がたくさん空いているのに・・・。あるときは、小学生くらいの子どもを連れた元気そうな(おそらく、ですが)親子までが・・・
★短歌<空席を 除けて座った 優先の 若き親子の 先の我が国>★
先日、いつものように千葉駅から乗車しましたが、津田沼駅あたりで足の不自由な初老の男性が乗り込んできました。腕に固定できるような杖?あれはなんていうのでしょうか、片方の腕にそれをつけてついていました。朝の総武線各駅停車は、隣の西千葉駅を過ぎるとポツポツとあった空席も埋まり、津田沼駅あたりでは相当数のお客さんが立っていて満員電車の様相が強くなってきます。その男性は仕方なく入口に一番近いところで、片手は吊革、片手は杖をついて立っていました。私は車両中央よりやや入口寄りの座席で、膝の上でいつものようにパソコンを広げて仕事をしていました。その男性が乗り込んで来たのに気付き、男性の近辺に座っている人たちをそれとなく見やってみると、男性の真ん前には若者が、その隣には中年の男性が座っていました。そして足の不自由な男性の隣には若い女性が立っていました。私の前には中年の女性が吊革を手に立っていました。(当然)近くの誰かが席を譲るだろうと考えてしばらく見ていると、その気配がありません。仕方なく私はパソコンを閉じてバッグにしまうと、「お座りになりませんか」と努めてはっきりとした声を男性に向かって発しました。そのまま立ったのでは、他の人に座られるとも考えたからです。男性は「ありがとうございます」と恐縮気に応じてくれました。私は立ってバッグを網棚に上げ吊革につかまると、周囲をそれとなく見渡しました・・・
★短歌<声出して 席を譲りし 我見えぬ 聞かぬ存ぜぬ 万人電車>★
バスでも電車でも見るこの光景。いったい「優先席」とはなんでしょう?「優先」であって「強制」ではないと考えているのでしょうか?また、そういう人が目の前に来たらそのときに譲ればいい、と考えているのでしょうか?それともまったく(「こころの目」を含めて)見えない、のでしょうか?私は毎日こういう光景を見ていますが、そうやって最初から優先席に座った人が実際に席を譲る姿をほんの1・2回見た程度です。悲しいことだと思います。
横浜市営地下鉄では「全席優先」と宣言しているそうですが、私も自然な形での「全席優先」こそが、本来のいたわりや思いやりの姿だと思います。「全席優先」についての様々な意見の中には、「優先席」と名付けているから多少なりとも抑制がかかっているのであり、このまま「全席優先」としてしまうだけなら、かえって譲り合いが減ってしまうだろう、というような意見もありました。反対に「優先席」と決めてしまうことで、一般席では譲らなくてもいい、と暗黙の誤った誘導をしてしまいそうな懸念もあります。どの意見にも一理あって、単に「全席優先」と宣言しただけでは「優先席に平然と座る」風潮が是正できるとも思えません。
「今現在」とは、都市化や科学の進歩・利便性の追求・人口の増加・生活様式の変化などを伴った時間の変遷の中で、人間の「こころ」が徐々に変化している過程でしかないのです。もしかすると「体が不自由な方が立っていても、いたわりや思いやりの「こころの目」が全く見えないのかもしれません。言葉やルールで「全席優先」をいくら叫んでも、また義務やマナーとして機械的に教え込んでも、親から子へと繰り返し繋がっていく命の繋がりのなかで、いたわりや思いやりといった人の「こころの目」が育たなければ、真の「全席優先」は絵に描いた餅でしかないのです。さらに「大げさ」(・・とも思っていませんが)に言えば、それは「戦争」の種にすらなる、と考えてしまうのは私だけでしょうか?
マナーや倫理観が崩れ、ルールが生まれ、それがまた崩れて、新しいルールができる。私には悪循環のなかで屋上屋を架しているとしか思えないのです。大切なのは、変化するのは当然のこととして、その中でも人間として「普遍・不変のこころ」を見失わない個々人の生き方と、それを育む「真の愛情にあふれた家庭教育力」の復活ではないでしょうか。(「復活」としたのは、1層目の屋上屋を架す前があったと確信しているからです。それは、産業革命あたりまででしょうか。)
それには「足るを知る」生き方やそれを育む為の血の通った教育理念と、世代交代に拘わることのない長期不変的な教育政策が必要なのです。五十嵐

続・一歩を踏み出す勇気

今日の写真:2013年3月20日撮影 湯島天神付近で 偶然通りかかったのですが「お幸せに(^_^)/」と声をかけてカメラを向けると、花嫁さんが飛び切りの笑顔で、幸せを分けてくれました。ありがとうございました。それにしてもイケメンと笑顔が素敵な美人の新婚さんでした(本文とは関係ありません)
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2013.5.16 日記より
 運行スケジュールの変更をしてから朝の通勤時間帯が大混雑の千葉中央バスの車内の様子について、先日もつぶやいたばかりですが、今日はその後日話となります。
今朝も満員状態で来たバスにやっと乗り込みました。ステップに乗り込むのがやっとの状態なのですが、やはり、いつもの通り後部には何人か分の立ちスペースがあり、これもいつもの通り最後部座席には詰めれば一人分の空きスペースが見えます。後部まで通り抜ける間に、地域の先輩が立っていらっしゃいましたので、最後部座席に空きがあることをお勧めし、ご辞退されたので自分が座らせてもらうことにしました。声をかけて間を詰めてもらい、なんとか腰を落ち着けることができました。
 暫くすると、左中ほどの座席がひとつ空きましたが、これまたいつもの通り誰も座ろうとしません。車内は後部を除き、ギュウギュウ状態です。
すると、私のお隣に座っていた年輩の女性が、席を立ちながら少し先に立っている若い女性に「次で降りますから、座っていただけますか」と声をかけて移動し始めました。声をかけられた若い女性は、軽く会釈(頷く?)すると私の隣に腰かけました。降りるために前に移動中の年輩女性は、空いた座席の脇を通り過ぎるとき、すぐ前に立っていた年輩の女性に「こちらが空いていますよ。どうぞ座ってください」と声をかけたのでした。勧められた女性は、礼を言って座りました。これで空いた座席が埋まり、バスに乗り損ねる乗客も減ることになります。
 また何よりも、この行動をさりげなく、丁寧に、相手の方も動きやすいような言葉遣いで実行されたこの女性が、とても美しく見えたのでした。
朝の満員バスの中に吹いた、心地よい春風のようでした。
感謝。

一歩を踏み出す勇気(^_^)/

今日の写真:2013年1月22日撮影 東京駅(本文とは関係ありません)
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2013.5.13 日記より
ほぼ満車で来たバスでした。が、やっとステップに乗り込んだバスの後部フロアには明らかに5~6人が立てるスペースがポッカリと空いていました。さらに最後部の横並びの座席は、詰めればあと一人は楽に座れます。私は、声をかけながら人垣を潜り抜けそのスペースになんとかたどり着きました。後部座席は誰か声をかけたのか、無駄な空きは無くなっていました。
2・3のバス停を過ぎるころには、その空きスペースは変わらぬまま、乗り切れないお客が出る始末でした。そのうち中ほどの座席が一つ空きました。脇に立つのはイアホンをしてスマホゲームに興じる若者。ところが、周囲はすし詰めであるにも関わらず、誰も座ろうとしません。運転手は詰めてくれるようにアナウンスし、後部扉から降ろしたり、前扉から載せたりして四苦八苦していました。
しばらくして見かねた私は、最後部から再び声をかけながら人垣を潜り抜け、その開いた座席に座らせてもらいました。元々まだ空きがあるが誰も立とうとしない後部スペースからの移動ですから混雑緩和には役に立っていません。そのまま、終点まで、お客の取りこぼしをしながら走り続けたバスでした。
そんなことにはまったく意識が及ばない、意識はあるがあと一歩踏み進む勇気が出ない、「詰めていただけますか」の一声が出ない、といったところが大方の言い分でしょうが「自分が行動すれば、あと一人乗ることができる。座席を必要としている弱者もいるかもしれない」と考えることもできるのではないでしょうか。
優先席から座席が埋まっていく乗り合いバス。通勤電車も推して知るべしです。意識が及ばない、関係ない、自分がやらなくても誰かが、勇気が出ない・・・。ここで私が言いたいのは、世の中は一人では生きて行けないこと、そして世の中は他人や社会、政治、が良くしてくれるのではない、ということです。自分はその他人・社会・政治の一部であることを忘れてはいけません。自分のあと一歩、あと一声、ちょっとした気配りの集まりが世の中ではないでしょうか。まず関わること、そして感じること、するとそこから感謝が生まれ、自分なりの一歩の原動力になる筈です。
いろいろ勝手なことを言っていますが、なにも自分が、大衆のなかで一人声を出す特異な出しゃばりになるべきだ、というのではありません。他人を批判して自分を正当化する論理ばかりが先行する今の世の中のように思いますが、一度自己を振り返り、総てを引き受けることから再スタートしてみたいものです。
by そらいろ ひで(五十嵐)

 

第4日曜日 廃品回収の事前放送を開始しました

第4日曜日、8時30分ころからまず放送で町内を巡回してもらい、10時以降に回収してもらいます。
ゴミ集積所か自宅前の道路(大通りから見えるように)に出してください。
地球環境保全と、自治会の収入になりますので、積極的なご協力をお願いいたします。

石橋山 春 爛漫\(^o^)/

石橋山市民の森 3月30日の風景
こんな素晴らしい環境があるのは仁戸名自治会だけ!

2012年バス旅行~養老渓谷・勝浦~

2012年12月1日。
養老渓谷では晴れ間に恵まれ、粟又の滝では木々の紅葉と青空のコントラストが見事でした。その後の勝浦海中公園ではあいにくの雨となってしまいましたが、それでも、海中に潜ってしまえば、魚たちが出迎えてくれました。車中では適度なお酒も入り、賑やかで楽しい旅行となりました。みなさん、ありがとうございました。

2012地域ふれあいレクスポ 写真集

2012年10月7日。松ケ丘小学校にて。地区内の22町内会が参加しました。
仁戸名自治会 大奮闘!